104話:ロマン派への誘い その2

 

<ピアノ> シューマン◇歌曲「ミルテの花」より〜献呈〜君に捧ぐ

もう一つのエッセイ「音楽と絵画の部屋」 シューマン:座右の銘こちらもご覧下さい


シューマン(1810-1856)というと私は「文学と音楽の架け橋」というサブタイトルをつけたくなる作曲家です。確かに同年代であったリストの手記に次のようなことが書かれているのが残っています。

*シューマンは文学を音楽に近づけた。彼は実際にそのことを証明することが出来た最も重要な音楽家である*

リストは音楽家としてシューマンは良きライバルと同時に尊敬していたことでしょう。面白い事にYoutubeでこんな動画を見つけました。映画「愛の調べ」より

シューマンの作曲した歌曲はほとんどが妻クララへの思いを表現しています。そのクララと出会うことになったのは、シューマン18歳で入門したのが著名ピアノ教師ヴィーク氏、そしてクララはそのヴィーク氏の愛娘だったのです。クララは当時才能あるピアニストの金の卵として音楽に留まらず多岐に渡り教育を受けていました。

やがてシューマンは21歳で音楽の道へ進む決意を固め、ヴィーク家に下宿することになります。しかし、その頃になるとクララも各地で注目されるピアニストになり演奏旅行が増え、肝心の父親ヴィークがかかりきりになり、シューマンへの指導が疎かになっていきます。シューマンはフンメル氏に指導の転向考えたり、また再び文学への道へと心が揺れ動きます。そしてこの頃は (簡単に言ってしまうと二重人格) 「二つの自我」に悩みやがて自分自身認め、新しい芸術への戦いを自覚し行動を始める年にもなりました。

20代後半はクララへの気持ちがより一層高まり、同時にヴィークとは益々折り合いが悪くなっていきます。ヴィークがシューマンを気に入らなかった大きな理由にはクララとは比べ物にならないほどの無名のピアニストだったからのようです。シューマンの活動をことごとく父親は妨害しました。そんな苦しい状況の中でシューマンは数々のピアノ作品を残しています。(ピアノの年と呼ばれている)

さて、そんな執拗なまでの父親の嫌がらせ(裁判にまで発展)にも負けずクララと1840年30歳で結婚します。その時期は「歌の年」と呼ばれ、結婚を機に、その年だけでも100曲以上の歌曲ばかりを書き上げました。きっとシューマンが人生において最も幸福で心穏やかな充実した年だったことでしょう。

*クララの日記より〜・・・これら全体がどれほどたやすく生まれ、幸せだったことか!たいていはピアノに向かってではなく立ったり、歩いたりして作曲した。今までと違って指先を通じて人々に伝えられるものではなく、もっと直接的でメロディに溢れている*

   グレコ 受胎告知-03.jpg

エル・グレコ(1451-1614)◇受胎告知

この絵を良くご覧下さい。大天使ガブリエルが手にしているユリの花、細い花瓶にさしてあるのがミルテの枝、いずれもマリアの処女性を表しています。

さて、今日ご紹介する「献呈」はその「歌の年」の代表作の一つでしょう。歌曲集「ミルテの花」全体がクララへの激しい思慕の情から生まれています。実際に結婚式の前夜にミルテの花を添えられてクラに作品が捧げられました。

ミルテの花言葉「愛」

グランヴィル ミルテの花(マートル).jpg

グランヴィル◇ミルテ(マートル)1846年

結婚式にもよく使われ、「祝いの木」とも言われています。

最後に「献呈」〜君に捧ぐの詩の一部をご紹介します。

 君は僕の魂 君は僕の心 君は僕の喜び あぁ、そして君は僕の心の痛み
 君は僕の生きる世界 君は僕の漂う天使 あぁ、そして君は我が墓
 その中に僕は永遠に悲哀を捧げいれたのだ

演奏◇ピアノ:ボレットシューマン=リスト◇献呈


 kumikopiano インフォメーション ♪♪  まだ若干お席に余裕がございます 



 ニューイヤーコンサートのお知らせ 

2012 ニューイヤーコンサート 

103話:ロマン派への誘い その1

皆様、お久しぶりです。
このところ演奏会と練習の日々で更新が中々できませんでした。
それにしても早いものですね。もう今年もまた1年を終えようとしています。
皆様はいかがお過ごしでいらっしゃいますか。

ベートーベン◇ピアノソナタ第8番ハ短調「悲愴」作品13

ベートーベン(1770−1827)と言うとすぐに思い浮かべる作品はこれからの時期にぴったりの交響曲第9番合唱つき「喜びの歌」を筆頭に、ヴァイオリンソナタ「スプリング」「クロイツェル」、小さな曲では「エリーゼのために」などなどそれぞれの人々の心の中に次々と作品が湧き出てきますね。

本日の作品は3大ピアノソナタ「月光」「熱情」と共に知られる「悲愴」のご紹介です。

この作品はベートーベン28歳(1798年)に書かれました。そして、ヴァイオリニスト、クロイツェルと知り合っている年でもあるのです。ベートーベンは22歳でウィーンに拠点を移し、成功の道を辿っているこの時期に病魔が忍び寄っていました。それは音楽家にとって致命的な「難聴」だったのです。

この曲はベートーベンにとって大変思いいれの大きい曲だったに違いありません。タイトル「大ソナタ悲愴(グランドソナタパテティーク)はベートーベン自身が名づけ、数少ない標題の例としても知られています。また、1楽章の「序奏」にもあるように、これまでのピアノ曲と異なり、人間的な感情表現が豊かになり、ロマン派のピアノ書法の原点とされています。

もしこの病に苦しまなかったら、これまでと同様サロン受けする作品を書き続けていたかもしれないだろう、苦悩に追い詰められそれを乗り越えようとしたことが彼を自己発見と斬新な技法を可能した、と考える専門家も多いのです。

ティソ ゲッセマネガーデンでの苦悩.jpg

ティソ(1836−1902)◇ゲッセマネの園での苦悩(キリストの苦悩)

では、ベートーベンがどれほど「難聴」について苦悩していたかを知る手がかりとなる友人に宛てた手紙の一部を書き出してみましょう。

出来ることなら僕は運命を相手に戦い、勝ちたい
僕は何回となく創造主を呪った。
考えても見てくれ、僕の一番大切な部分である聴覚がだいぶ弱まっているのだ。


さて、実際この曲を翌年1799年に発表すると数年間に渡り、賛否両論のセンセーションを巻き起こしました。モシュレス(1794−1870作曲家・ピアニスト)*下記写真*の伝えをご紹介しましょう。

モシュレス.jpg

彼が1804年プラハ音楽院の生徒だった時、学校はモーツアルトクレメンティ・バッハ以外の作品を学ぶことは禁止したそう。特にベートーベンについてはすべての規則に違反してでたらめな音楽を書いていると。モシュレスはこっそりと図書館に通い、「悲愴」を見つけ、写譜し、そのスタイルの新しさに魅了されました。

写譜というと私はバッハを思い出します。10歳の頃、まだ早いから駄目だといわれたパッヘルベルピアノ曲の譜面をこっそり持ち出し6ヶ月もの間写していたそう。またモーツアルトは譜面を見ることも禁じられていた教会カンタータの演奏について、耳でその演奏を記憶していまったとのこと。いつの世でも後世に名を残す大家は知恵と根気が人並み外れているのですね。凡才の私にはどんな知恵があり、どこまで根気が続くのか。これからも自分自身を楽しむゆとりを忘れず精進していこうと思います。

その他、若きベートーベンのエピソードを知りたい方はChaputer 7 社交界の寵児:ベートーベンこちらのエッセイをご覧下さいね


◇第一楽章:序奏、アレグロ・ディ・モルト・コン・ブリオ(荘厳に、きわめて輝かしく)
◇第二楽章:アダージョカンタービレ(きわめて遅く、歌うように)
◇第三楽章:ロンド・アレグロロンド形式、軽快に)


演奏◇ピアノ:ケンプ ソナタ「悲愴」第2楽章

 kumikopiano インフォメーション コーナー 

3'rdアルバム「My Romance」を2011年8月にリリースしました。

マイロマンス ミニジャケット.jpg

言葉の無い3つのロマンス(フォーレ)/アヴェマリアピアソラ)/間奏曲作品118−2(ブラームス)/ロマンティックな情景(シベリウス)/甘い思い出・紡ぎ歌(メンデルスゾーン)/あなたが欲しい(サティ)/亡き皇女のためのパバーヌ(ラヴェル)/即興曲作品90−2(シューベルト)/愛の夢(リスト)/フランス組曲第5番より(バッハ)/精霊の踊り(グルック)/幻想即興曲ショパン)/トロイメライシューマン) 計62分 定価¥1500にて発売中。
 

今日の1曲◇バッハ:フランス組曲第5番「アルマンド」 より ピアノ:本間くみ子

録音スタジオ:ソフィアザールサロン
yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています

2つのコンサートとピアノソロアルバムのお知らせ

ニューイヤーコンサート ソフィアザールサロン(駒込)2012年1月21日(土)2時半開演



チェロ&ピアノ名曲コンサート カフェ「野の花」 4時開演

お問い合わせ、お申し込みはこちら kumiko.piano.1215@docomo.ne.jp

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3'dアルバム<マイ・ロマンス> 2011年9月制作


言葉のない3つのロマンス:フォーレ / アヴェマリアピアソラ(編曲 本間くみ子) / 間奏曲作品118−2:ブラームス /  ロマンティックな情景:シベリウス / 無言歌集作品19−1「甘い思い出」:メンデルスゾーン / ジュ・トゥ・ブ(あなたが欲しい):サティ / 即興曲作品90−2:シューベルト / 亡き皇女のためのパバーヌ:ラヴェル / 無言歌集作品67−4「紡ぎ歌」:メンデルスゾーン / 愛の夢:リスト / フランス組曲第5番より「アルマンド」「サラバンド」:バッハ / 精霊の踊り:グルック / 幻想即興曲ショパン / トロイメライシューマン
[リボン] ショパン:幻想即興曲 より


リサイタル記念ライブアルバム〜Moonlight 2010年10月2日ライブ録音


エルガー:愛の挨拶 / メンデルスゾーン:春の歌 / ブラームス:間奏曲作品118−2 / カプリチオ / シューベルト即興曲作品90−3 / バッハ:フランス組曲第6番 / シューマン:夕べに , 飛翔 / ベートーベン:ソナタ「Moonlight(月光)」 / アンコール〜バッハ:主よ、人の望みの喜びを / ショパンノクターン第5番



[リボン]ベートヴェン:ソナタ14番「月光」第2楽章 より

ファーストアルバム〜ショパンワルツ集 2009年9月制作


華麗なる大円舞曲、小犬のワルツを含めた
14のワルツ集を2009年収録しました。 
ショパンの調べ、それは音の宝石箱をひらくときめきのよう。
ワルツの杜を一緒に歩きませんか


[リボン]ワルツ:14番 より

セカンドアルバム〜レントより遅く 2010年8月制作


エルガー:愛の挨拶 / メンデルスゾーン:春の歌 / シューベルト即興曲作品90−3 / モーツアルト:幻想曲二短調 / ベートーベン:月光1楽章 / バッハ:主を、人の望みの喜びを / バッハ:フランス組曲第6番 / シューマン:夕べに、飛翔 / ショパンノクターン「遺作」 / ドビュッシー:月の光 / ラベル:優雅で感傷的なワルツ第7番 / フォーレノクターン2番 他


モーツアルト:幻想曲二短調 より

その他ライブ録音として 【ソプラノ〜星に願いを:ピアノ編曲 本間くみ子】 より

102話:素晴らしきかなシューベルティアーデ

シューベルト(1797−1828)ドイツ生まれ、「歌曲の王」と呼ばれていることは有名ですね。外見的には身長は低く、どちらかというと肥満体で、ひどい近眼。金銭的にいつも貧しく、友人たちの家を転々とする生活を送り、そのせいかどうか、何日もお風呂に入らなくても平気で、身なりは汚らしかった...と伝えられています。

そんな風貌のシューベルトですが、実際には彼を応援する友人が大勢いたのでした。彼の陽気で楽観的な性格とこの音楽の才能が皆から愛されていたのでしょう。神学校時代の同級生シュパウン、その友人でシューベルトを客人として自宅に招いたショーバー、詩人のマイアホーファー、歌手のフォーグル、そんな仲間がシューベルトを経済的に助け、作品の初演・出版に力を注ぎました。その彼らが催したシューベルトを囲む集会のことを「シューベルティアーデ」と呼ばれたのです。

 

Hans Temple シューベルト.jpg

シューベルト◇16のドイツ舞曲 作品33

さて、今日ご紹介する「舞曲」についてですが、このワルツのスタイルはシューベルト以前のハイドンモーツアルト、ベートーベンの時代の頃から舞曲形式の作品は実用的な目的として、彼らも書いていました。それは彼らのおかれている社会的立場からそのように義務付けられる事すらありました。やがてシューベルトの時代なり、音楽は貴族階級と離れ中産階級へと流れ、新しい友人達の集まりに即興的な楽しみ方としても用いられるようになったのです。

今日の絵画のように、シューベルトはここで自らピアノを弾き、あるいは歌い(かなりの美声であったらしい)、舞踏会となると新作や即興の舞曲を演奏しては皆を喜ばせる人気者でした。実際、シューベルトはかなりの数の舞曲、実際に踊るために作り、集中的に作曲されたのは、このシューベルティアーデが頻繁に開かれた、1823年から24年にかけてです。

シューベルトは舞曲を即興し、気に入ったものを繰り返し弾き、書き留めて出版したそうです。そうして数多くの舞曲が生前のうちに世に出たのですが、この作品もまた、早くも翌年にヴィーンのカッピ社によって取りまとめられました。

またシューベルトは四六時中五線紙と向き合う生活で、その創作力が絶えることはありませんでした。レストランのメニューの裏に友人が五線を引いて、そこに曲を書きつづっていった、などというエピソードも残っています。

演奏◇ピアノ:ブレンデル 16のドイツ舞曲

16の舞曲とは言っても、1つ1つが大変短く(平均16小節)次々と曲調(テンポと調性)が変わります。それはまるでシューベルト自身が自分を囲んでいる友人達のキャラクターを即興で表現しているかのような、さもなければ踊る舞台が次々と変わるラウンドステージのような、そんなワクワクした感じが伝わります。演奏するのも聞くのもとても楽しい作品ではないでしょうか。

 

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3'rdアルバム「My Romance」を2011年8月にリリースしました。

マイロマンス ミニジャケット.jpg

言葉の無い3つのロマンス(フォーレ)/アヴェマリアピアソラ)/間奏曲作品118−2(ブラームス)/ロマンティックな情景(シベリウス)/甘い思い出・紡ぎ歌(メンデルスゾーン)/あなたが欲しい(サティ)/亡き皇女のためのパバーヌ(ラヴェル)/即興曲作品90−2(シューベルト)/愛の夢(リスト)/フランス組曲第5番より(バッハ)/精霊の踊り(グルック)/幻想即興曲ショパン)/トロイメライシューマン) 計62分 定価¥1500にて発売中。
 

今日の1曲◇ショパン:幻想即興曲 より ピアノ:本間くみ子

録音スタジオ:ソフィアザールサロン
yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています

10月2日(日)午後2時半 ベートーベンチクルス室内楽演奏会チェロソナタ1番・3番/シューマン:幻想小曲集(チェロとピアノ)/シューマン:子供の情景より(ピアノソロ)他こちらもどうぞ宜しくお願い致します。




101話:「ドイツ・リート誕生日」となった作品

98話、99話とベートーベンの作品が続きました。癇癪持ちと言われたベートーベン、交流のあった音楽家ハイドンとは喧嘩別れをしてしまったという話が残っていますが、弟子であったツェルニーをはじめ、シューベルトもほんの少しですがベートーベンとの関わりがあったようです。

シューベルト(1798−1828 ウィーン生)はベートーベンを大変尊敬していました。ベートーベンが27歳の時にシューベルトは生まれたのですから30歳近くもの年の差があります。同じウィーンで過ごしていたのだから互いにすれ違うことくらいあったのではないでしょうか。もしかしたら共通の知人がいたのかもしれません。
しかし、1822年にシューベルトはピアノ連弾曲作品10をベートーベンへの献辞を添えて出版した事を機にその作品を持ってベートーベンを訪ねましたが留守で会えなかったと伝えられています。

一方、1826年10月ベートーベンは病床についた頃、シューベルトの歌曲を知り彼は「この作曲家は本当の神聖な焔を持っている」と周囲の人に褒めたとのこと。しかしシューベルトは知る由はなかったのです。やがて死の数日前に見舞い客の中にシューベルトの姿もありました。
その次の年、31歳という若さでシューベルトも亡くなるのですが周囲の人たちには「自分が死んだときはベートーベンの近くに埋葬して欲しい」と頼んだそう。現在ウィーン中央墓地にはべートーベンとシューベルトの二つの墓が隣り合っています。


シューベルト◇糸を紡ぐグレートヒェン

シューベルト17歳の時、「1814年9月19日」西洋音楽の歴史のなかでも、とくに重要な日付けのひとつとされています。それはこのゲーテの詩による最初のリート「糸を紡ぐグレートヒェン」が生み出されているのです。

  

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シェーファーファウストとグレートヒェン

この歌曲はゲーテの長編戯曲「ファウスト」からの詩によるものです。また、ゲーテ14歳の時に思いを寄せた少女、グレートヒェンが根底にあり、戯曲「ファウスト」では1部にてファウストとグレートヒェンを巡る悲劇の中での彼女の思い、苦しみを歌っています。マルガレーテ(愛称グレートヒェン)は糸車で糸を紡ぎながら、恋人であるファウストの顔や仕草を思い出し、心の高ぶりを歌います。口づけを思い起こす時、陶酔して思わず踏み板を止めてしまう、われに返り、再び作業を続けようとする、しかし心ここにあらず、そんな心境を的確に表現しています。

これまでバロック期からの音楽の主要な役割はその心情など、一つの曲の中ではパターン化された静的な感情のみ、状況や心情が事細かに描写されるだけでした。しかしシューベルトは、ゲーテの意をうけ、むしろ「心情の変化」を描いたのです。例えばしだいに興奮してまたわれに返るという感情の変化です。この表現はそれまでの音楽、少なくとも歌曲の世界ではほとんど描かれたことがなかったのです。

アリ・シェフェール 糸を紡ぐマルガレータ.jpg

アリ・シェフェール◇糸を紡ぐマルガレータ(愛称グレートヒェン)

 

〜〜詩の一部をご紹介します〜〜

わたしの安らぎは去り、私の心は重く沈んでいます。
私は二度と、もう二度と心の安らぎを得ることはありません。
あの方がいない所なんて、私には墓場も同然です。
世の中の全てが私には苛立たしいのです。
私のできの悪い頭はおかしくなってしまい、私のみじめな心は粉々になってしまいました。

演奏◇ソプラノ ルチアポップ 糸を紡ぐグレートヒェン





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今日の1曲◇シューベルト:即興曲作品90−2 より ピアノ:本間くみ子
録音スタジオ:ソフィアザールサロン
yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています

音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 6. テーマ「雨」

100話:難聴の苦悩、心の焦燥


ベートーベン 考える.jpg

Beethoven◇Thoughtful

「僕は何回となく創造主を呪った。考えてもみてくれ、僕の一番大切な部分である聴覚がだいぶ弱まっているのだ」

ベートーベンが友人に宛てた手紙の一節です。

「6年このかた不治の病に侵され、つまらぬ医師たちによりいっそう病を重くされている」

これは1802年ごろ書かれたと推定される遺書のなかにありました。



ベートーヴェンピアノソナタ第8番「悲愴」


ベートーベンの代表的なソナタに「月光」「熱情」「テンペスト」「ワルトシュタイン」「告別」などがありますが、この「悲愴」もまさにそれであり、ピアノ3大ソナタとしても挙げられています。

このソナタは1798年から翌年にかけて作られました。まさにベートーベンの難聴が始まった時期でもあります。またこの曲の「グランド・ソナタ・パテティーク」という標題は彼自身の命名する数少ない作品でもありました。そしてこれが、彼に苦難を与えた「運命」への作曲家としての答えでもあるのです。

友人ヴェーゲラーへの手紙の中の一節〜「できることなら、僕は運命を相手に戦い、勝ちたい」



グレコ キリストの苦悩.jpg

エルグレコ◇キリストの苦悩

エルグレコ(1541-1614)はスペイン出身、イタリア(ヴェネツィア・ローマ等)やスペインで活躍したマニエリスム最後にして最大の画家です。

さて、この作品は発表と同時に爆発的な人気を呼び、アカデミックな作品を重視するヴィーンの教師たちは、この型破りな作品を見ることを禁じたほどだったそうです。当時生徒だったモシュレスは密かに楽譜を手に入れ写譜したことが伝えられているとのこと。


第1楽章、冒頭の叩きつけるような感情の爆発のフォルテ・ピアノの和音で始まる主題同機の3回にわたる繰り返しは鬱積した情熱の吐露であり、つづく苦悩とそれからの脱出への願望を願うかのような楽想の進行は、まことに絶妙であり荘厳である。
園田高弘 著)

この名曲は不幸にして重い病のおかげで生まれた作品ですが、もし彼が難聴に見舞わなければその後も求められるままに、人気作曲家としてサロン受けのする作品を書き続けていたかもしれません。苦難に追い詰められ乗り越えようとしたことが、彼に新しい自己発見と斬新な技法を可能にさせたのでしょう。こうして今日の作品の背景を改めて考えてみると今現在、私達のおかれているこの状況に通じるものがあるのではないでしょうか。

参考書籍:ベートーベンの生涯(青木 やよひ著)

演奏◇ピアノKempff ケンプ 悲愴 第1楽章



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今日の1曲◇ベートーベン:ソナタ「月光」2楽章 より ピアノ:本間くみ子
録音スタジオ:ソフィアザールサロン
yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています

音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 5. ラフマニノフ:神秘とロマンス