99話:タイトル「ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン序奏つきのピアノソナタ」

随分と長いタイトルですね。これは最初、ベートーヴェン自身のつけたタイトルだったそうです。

ベートーヴェン◇ヴァイオリンソナタ「クロイツェル」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven)1770−1827 ドイツの作曲家、そして古典派音楽の集大成、かつロマン派音楽の先駆けとされています。
ベートーベンは粗野で気難しいというイメージがあります。その人格形成には10代の頃父親からのしうちで次第にゆがんでいってしまったのかもしれません。

幼少の頃、やはりモーツアルト同様ベートーヴェンの父親も大変熱心に音楽教育と小さなベートーヴェンを売り込みにいくのですが、次第に父親が思った以上に息子に才能があり、13歳にしてすでに父親を超えてしまいました。父親は宮廷楽長という高い地位にありながら平凡な才能である自分は息子ベートーベンに嫉妬を抱き、やがてお酒に溺れていったようです。
こうした複雑な親子関係、母親への思いやり、父親が生活費をすべてお酒につぎこむため幼い兄弟を養う努力、そんなベートーベンは私たちの知らない苦労、そして実はとても思いやりに満ち、責任感溢れる人物でもあったようです。

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さて、ベートーベンがモーツアルトと出会った事について一つご紹介します。ベートーヴェンが17歳の頃、2週間ほどウィーン旅行をしていました。その旅の目的の一つに小さい頃からモーツアルトに憧れ、彼に教えを乞うためだったのです。モーツアルトの家に人に連れられてやって来たベートーヴェンはリクエストされた曲を弾きました。モーツアルトは前もって用意していた演奏と判断し、やや冷たい口調でほめました。そこでベートーヴェンモーツアルトに即興演奏のテーマを自分に与えてくれるよう頼みます。尊敬する巨匠の前とあってベートーヴェンは熱を込めて演奏しました。するとどういうわけかモーツアルトは演奏が終わらないうちに隣室に消えてしまったのです。

ベートーベンはそのモーツアルトの行動に自分の演奏に興味を示してもらえなかったと思いがっかりして帰国します。しかし後に分かった事ですが、そのモーツアルトの行動は実は違っていて、彼の注目と関心が次第に高まり、ついに興奮して隣室にいた友人に伝えに行ったのでした。

「彼(ベートーヴェン)に注目したまえ。いつの日か彼は、語るに足るものを世界に与えるだろう」

今日お届けするヴァイオリンソナタ第9番イ長調作品47は1803年、33歳の頃の作品です。ヴァイオリニストのルドルフ・クロイツェルに捧げられたため、サブタイトルに「クロイツェル」として呼ばれています。

この曲もまたドラマがあったようです。実際、ベートーベンはクロイツェルに献呈するために書いたものではなく、黒人ヴァイオリニスト、ブリッジタワーに献呈したのです。同じ年にウィーンで彼と共演したベートーヴェンは感銘を受けこの曲を捧げました。しかし「狂気の黒人のためのソナタ」と親しみから茶化すような献辞がついていました。またある時、ブリッジタワーがある女性を侮辱したところ、その女性はベートーベンの友人であった事もあり次第に二人の関係は終わってしまったのです。そして改めて当時のヴィルトゥオーゾだったクロイツェルに改めて献呈したと言われています。

この作品に触発されたロシアの文豪「トルストイ」は小説「クロイツェル・ソナタ」を書いています。嫉妬心にかれれ妻を殺してしまった夫の悲劇が描かれています。
  

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ニコラス・ゲー◇トルストイの肖像

画家ニコライ・ゲー(1831−1894)は熱烈なトルストイ信望者で、当時56歳のトルストイに頼みこみ、モスクワの自宅で仕事に没頭している姿を描くことに成功したとのことです。

また作曲家「ヤナーチェク」はその小説に刺激を受けて、弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」残しました。

参考書籍:ベートーベンの生涯(青木 やよひ著)

演奏:Argerich & Kremer
http://www.youtube.com/watch?v=zsWdfh95urc



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今日の1曲◇ベートーベン:ソナタ「月光」3楽章 より ピアノ:本間くみ子
録音スタジオ:ソフィアザールサロン
yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています

音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 5. ラフマニノフ:神秘とロマンス

98話:手抜き、減給の名曲



クラシックファンになら大方予想のつく今日の作品ですね。先日、私はオーボエ奏者とちょうど本番にてこの曲で共演させて頂きました。やっぱり木管楽器から流れ出る暖かい響き、モーツアルトの「減り張り」と「ギャラント感」は私の心を瞬時に快活に、そして豊かにさせてくれます。

モーツアルトオーボエ協奏曲とフルート協奏曲

モーツアルトは(1756−1781)オーストリアザルツブルグ出身。フルネームはヴォルフガング・テオーフィルス・モーツアルトなのですが、実に輝かしい名前であるという事で少しご紹介します。

ヴォルフガングヨハネ・クリュソストムスはキリスト教の説教者、東方教会の総主教にして4大教会博士の一人である。そのヨハネの祝日に当たる1月27日に生を享けた。またヴォルフガングじたいも聖人の名。また、母マリーア・アンナの生地ザンクト・ギルゲンの湖ヴォルフガングゼーにもなぞらえているが、「狼とともに行く者」という意味でゲルマンの伝説に基づき、勇者の意を持つ

テオーフィルスラテン語系ではアマデウス、ドイツ語ではゴットリープ、いずれも「神を愛する者」または「神の愛でし子」の意味を持つ。

名は体を表すとはまさにモーツアルトのことですね。3才で楽才の芽生えを目の当たりにした父、レオポルトは4才でレッスンを始め、5才で小曲の創作まで試みるのでした。17歳にして、もう他の年長作曲家たちと互角、いえそれ以上のもので圧倒したのです。


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神童8歳、ナンネル13歳、父レオポルト45歳

1762年(6才)の時父親に連れられてロンドンにやってきます。するとバッハの11人目の子供ヨハン・クリスティアン・バッハ(27歳)と出会い演奏しあいながら年齢差を超え仲良くなるのです。クリスティアンはバッハ家の中で唯一オペラ作曲家であったようです。モーツアルトクリスティアンから、華やかで魅力的な表現や響きを学び取りました。その後モーツアルトピアノソナタギャラントな作曲様式バロックの複雑から古典派の明晰へむかう中に登場した音楽)クリスティアンのそれに影響を受けているとのこと

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ヴァトー1684〜1721◇恋の音階

ジャン・アントワーヌ・ヴァトゥは18世紀フランス画壇において最も重要な画家であり、ロココ様式(豪壮・華麗なバロックに続き優美・繊細なロココとして一時代続いた美術文化)の形成に大きな役割を果たした。

モーツアルトの生涯はわずか35年で閉じてしまい、今日の私たちからすれば短すぎると誰しもが思うでしょう。また、およそ800曲にも及ぶ作品の創作をわずか5才から始め、30年という時間の経過の中で書き上げていく速さとはいったいどんなものなのでしょうか。いくつかのシュミレーションも試みられたとの事。どれもが写譜者がどんなに早くモーツアルトの曲を書き写しても、彼の35年という物理的、計算的な時間の中には収まらないどころかはるかに超えてしまうとの事です。とうてい間に合わないという事なのです。しかも筆跡が流麗そのものだそう。

さて、今日ご紹介するこの作品は、ベルガモ出身でザルツブルクの宮廷のオーボエ奏者ジュゼッペ・フェルレンディスのために1777年4月1日から9月23日の間に作曲されました。実はエピソードとはこの後のことになるのですが、1778年ごろ、アマチュアフルート奏者、ドジャンからフルートの作品をいくつか頼まれるのです。モーツアルトは当時まだ楽器として音程が安定していなかったフルートをあまり好きではなかったのですが、お金に困っていたので引き受けてしまいます。しかし中々作曲が間に合わず、いくつかの作品のうちこの曲をオーボエ協奏曲のキーを一音あげてそのまま渡してしまったという訳です。それを知ったドジャンは初めに提示した報酬の半分しか払わなかったとの事です。

参考書籍 :「モーツアルトの廻廊」 海老沢敏著 春秋社
モーツアルト」 スタンダール著 東京創元社



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今日の1曲◇モーツアルト:トルコマーチ ピアノ:本間くみ子
録音スタジオ:ソフィアザールサロン
yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています


冒頭でご紹介したオーボエ奏者のプログはこちら堀子孝英
演奏はこちら◇オーボエ:堀子孝英Shadow of your smile

音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 4. ドビュッシー、出世作となった管弦楽曲

97話:モーツアルト晩年の最高傑作


前回のマタイ受難曲に関連したお話で、今日はモーツアルトの逸話を一つご紹介します。モーツアルトは(1756−1791)オーストリアザルツブルグ出身、大バッハの息子クリスチィアン・バッハに小さい頃出会ったエピソードもあるのですが、今日は別のお話しです。

13歳の時、父親とローマで復活祭前週を過ごします。聖水曜日夕刻ミスティナ礼拝堂にて「ミゼーレ」を聴きます。絵画、ミケランジェロの「最後の審判」に光が当たり、荘厳な響きで始まりました。当時、法王つきの楽団員にも「ミゼーレ」(グレゴリオ・アレグリ作曲)の写譜は禁じていました。モーツアルトは何としてもその曲を知りたく「それならば暗記しよう」と思い立つのです。宿に帰り記憶をたどり書き写します。金曜日にまた同じ演奏会にもぐりこみ、自分の写し譜の訂正箇所を見つけたということです。

モーツアルト◇オペラ「魔笛」より 

モーツアルト晩年の最高傑作「魔笛」、1791年、最後に完成させたオペラです。病気が進行し、制作中に何度も失神しながら書き続け、モーツアルト自身もオペラの中では特に心こよなく愛する作品でした。公演中は容態が悪化し、最初の9.10回ほどしか指揮をふれなかったとの事。いよいよ衰弱状態になると劇場へ脚を運ぶことも出来なくなり、ベットの脇に懐中時計を置き、夢の中でオーケストラを追っているようだったそうです。

「さあ、第一幕が終わった」  「いま、あのアリアを歌っている」

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シャガール魔笛

魔笛」の台本は興行主・俳優・歌手であるエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書きました。シカネーダーは当時ヨーロッパ各地を巡業していたたび一座のオーナーで、モーツアルトとはザルツブルグ時代の知り合い、またお互いにフリーメイソンの会員でもありました。シカネーダーは当時仕事がなく生活に困っていたモーツアルトに大作を依頼したのがそもそも傑作を生み出す始まりです。

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フリーメイソンの集会◇最前列右端がモーツアルトらしい・・

魔笛の成功の大きな要素にはおそらくコンスタンツェへの想いが自分の作品のために必要な情熱的なアリアのモチーフとして見出されたことだと言われています。
ウィーンで初演された時壮大な人気を博し、その年だけでも上演20回を越えたと言われています。

ストーリー:魔法の笛に導かれた王子タミーノが数々の試練を乗り越え夜の女王の娘パミーナを結ばれるというロマンスと、夜の世界を支配する女王が昼の世界を支配するザラストロに倒されるという話の二重構造です。

パパゲーノの軽快なアリア「おいらは鳥刺しパパゲーノ」、夜の女王が雷鳴と共に登場し歌う超絶技巧のアリア「恐れるな若者よ」「復習の心は地獄のように」などはこのオペラの最高の聴きどころともいえるのではないでしょうか。

モーツアルトが愛した音楽家:ボッケリーニ・ヘンデル

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シャガール◇パパゲーノ


参考書籍:「モーツアルトの廻廊」 海老沢敏著 春秋社
       「モーツアルト」 スタンダール著 東京創元社



パパゲーノ&パパゲーナの二重奏 Pa pa pa pa Cecilia Bartoli & Bryn Terfel


パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーナ
パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーノ

パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーナ!(パパゲーノ!)

きみってすっかりボクのもの?
あたしすっかりキミのもの
ぼくのおヨメになるのかい!?
あたしの心の鳩になれ!

なんてうれしいことだろか。 神さまたちのご配慮で、愛する二人が授かれば。かわいいちっちゃな赤ちゃんを

まずは、ちっちゃなパパゲーノ。
おつぎ、ちっちゃなパパゲーナ。
そのあとまたも、パパゲーノ。
つぎもまたまた、パパゲーナ。

想いがはちきれ、あふれそう。いっぱい、いっぱい、いっぱいの パパパ・パパパパ、パパゲーノ、パパパ・パパパパ、パパゲーナ、 愉快なぼくらに産まれれば。
ちっちゃな子どもに取り巻かれ、 おなじ喜び分かち合い、おなじ姿にほほえんで。幸せなんて これよりも、大きなものがあるだろか?


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今日の1曲◇モーツアルト:幻想曲二短調 ピアノ:本間くみ子
録音スタジオ:ソフィアザールサロン
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音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 2. ドヴォルザーク「自問の時期」

96話:奇跡的な復活上演


早いものでもう3月を迎えました。やがて春分の日も訪れます。この時期ヨーロッパではイースターというお祭りがあるのもご存知の事でしょう。十字架にかけられたキリストが亡くなり、3日目に復活したとされる最も重要、記念すべき日。春分の日の後、最初の満月の次の日曜日に祝われている復活祭(イースター)にちなんだ作品を今日はご紹介します。

この曲を作るにあたり、当時復活祭前40日は「受難と復活に向けての準備期間」でありすべての歌舞音曲が禁止されていました。多忙なバッハはおそらくこの期間を利用してこの大規模な受難曲や復活祭のためのカンタータを準備する事ができたのであろう、という事です。

バッハ◇マタイ受難曲より 52.「アリア:わが頬の涙

まずこれほどの大曲、大作を取り上げるにはこの小さなページではあまりにもお粗末なのではないか・・とも考えたのですが今後もシリーズとして再び取り上げていきたいと思います。

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グイド・レーニ(1575−1642 伊)◇聖マタイと天使

バッハはドイツ生まれ、1685年〜1750年の生涯、当時としては比較的長生きをした音楽家です。また大きく3つの活動時期に分けられます。

ワイマール時代 1708年〜1717年 23才〜32才
ケーテン時代  1717年〜1723年 32才〜38才
ライプツィヒ時代 1723年〜1750年 38才〜65才

そしてこのマタイ受難曲ライプツィヒ時代を代表する作品であると共に、バッハ全作品中の最高峰に位置づけられる作品でもあるのです。しかしながら残念な事に1727年ライプツィヒの聖トーマス教会で初演された時はそれほどの評価を受けませんでした。以後改定を繰り返し1736年に完成したといわれています。

ところが今日私たちがこの大作を知る事が出来た裏には、そのおよそ100年後1829年に「奇跡的な復活上演」があったからなのです。それはロマン派作曲家、メンデルスゾーンの貢献、偉業によって歴史的な上演がなされた事により、バッハの再評価につながったからなのです。

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ゴッホ(1853−1890 和蘭)◇ピエタ(哀れみ、慈悲)

<作品について>

新約聖書「マタイによる福音書」の26,27章のキリストの受難をテーマにしたもの。多くの独唱、合唱、オーケストラを伴う大規模な音楽作品です。演奏時間はカット無しで約3時間、最近のピリオド奏法では2時間30分という長編です。

第一部 : イエスの捕縛まで

導入の合唱 / 十字架の士の予告 / 祭司長たちの合議 / 香油を注ぐベタニアの女 ユダの裏切り / 晩餐 / オリーブ山にて / ゲッセネマの苦しみ / 捕縛

第二部 : イエスの捕縛、裁判、磔刑、埋葬と封印まで

人気なき園に花婿を探すシオンの娘とエルサレムの娘たちの同情 / 大祭司の審問 / ペテロの否認 / ユダの後悔と末路 / 判決 / 鞭打ち / 十字架の道 / 十字架上のイエス / イエスの死 / 降下と埋葬 / 哀悼 


それぞれのタイトルには合唱と独唱があります。合唱=コラール=群集=公的に対して、独唱=アリア=イエス・ペテロ・ユダ・ピラト・大祭司等の聖書引用部分にもとづいた台詞、そしてバッハ自身の感情、意思、思考表現の要素があります。

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ドラクロワ(1798−1863 仏)◇埋葬

 

今日お届けする曲は、第2部「鞭打ち」から52番:アリア「我が頬の涙」です。

たとえ私の頬に涙が流れなくても、おお、私の心を受け取って下さい。しかし主の傷が慈しみ深くも血を流すとき、私の心をこの血で満たし、捧げ物の皿とならせて下さい。 52番:アリア「我が頬の涙」


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今日の1曲◇バッハ:主よ、人の望みの喜びを

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ピアノ:本間くみ子

録音スタジオ:ソフィアザールサロン

音楽と絵画の部屋 こちらもどうぞ Chapter 1. パッヘルベルの唯一の作品

95話:蝋燭もなく月光のもとで


ヘンデルの作品に続き今日は同年に活躍したバッハの作品からのご紹介です。


バッハ◇カンタータ第196番「主は我らを心にとめたもう」

ドイツの人たちの暮らしの中で秋になると近隣の大小の教会でバッハのカンタータの演奏が行われているそうです。どこの教会で何番のカンタータが上演されるかが分かるように、特別なパンフレットが発行され、なおかつ無料で聴くことができるとの事。まさにバッハのカンタータはドイツ人の生活の一部なのですね。

バッハはドイツ生まれ、1685年〜1750年の生涯、当時としては比較的長生きをした音楽家です。今日はバッハの小さい頃、青年時代の逸話を中心にご紹介したいと思います。


小さい頃のバッハは合唱隊に入っていた事は確からしいとの事。当時の合唱隊は二つに区分され、一つはルター派ラテン語の聖歌。そしてもう一つはドイツ語のコラールを単旋律で歌ったもので、より若く、未熟な少年たちによる<クレンデ>とより音楽的な者たちによって構成された<ポリフォニーコルス・ジンフォニアクス>と呼ばれてものでモテットやカンタータを主に歌っていました。
バッハが作曲している宗教曲のふるさとはその作品群(ルネサンス期の巨匠=ヴァルター / ヨハン・クリストフ・バッハ / ヨハン・クリストフ・バッハ←最初の妻マリア・バルバラの祖父)にあるようです。

 

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バロック絵画◇カンタータ

バッハは10才になるかならないかで両親を失ってしまいます。そこで兄クリストフバッハ(オールドルフのオルガニストの指導の下にクラヴィーア(今でいうチェンバロやピアノのような鍵盤楽器)演奏の基礎を作りました。ただバッハの学ぶ意欲は計りしれず、兄が自発的に学ぶように与えた教材はすべて短期間で習得してしまいます。そして兄の持っていた別のクラヴィーア曲集(最も有名な巨匠=フローベルガー、ケルル、バッヘルベル 等)を見せて欲しいと懇願しても叶いませんでした。

そんなある日、バッハは兄がしまってあるそれらが格子戸だけで仕切られていた戸棚の中に有ることを知っていた事、そしてまだ手が小さく伸ばすたらとれるような場所だった事で、みんなが寝静まるとこっそりをそれを持ち出しました。当時は蝋燭の火はとても貴重なものでしたから明かりとりは許されず、月光をたよりに何と6ヶ月間写譜を続けたのです。でも結局最終的には兄に見つかり取り上げられてしまったようです。

皆さんの子供の記憶の中にもそれに似たような思いではないでしょうか。本当に欲しいもの、手に入れたいもののための努力、知恵は時として、自分自身気がつかなかった力となるものではないでしょうか。今日のように物、情報の溢れる社会では発想も貧しく想像力を働かせる力も育たないと改めて考えさせられませんか。

〜〜〜  〜〜〜  〜〜〜  〜〜〜

さて、もう一つのお話です。バッハも18歳になるとその才能が認められザクセン=ワイマール公爵の宮廷オルガニストとして、アルンシュタットの新教会のオルガニストのポストに就くことになりました。そうして20歳になったある日、ガイヤースバッハ(23歳で5年留年、未だ生徒の身分)から喧嘩をしかけられます。それはバッハが或る時、「へっぽこファゴット吹き」と彼をなじったことが原因でガイヤースはそれを根に持ち待ち伏せ、バッハが腰に下げていた剣を抜いたか抜かなかったか、そんな喧嘩騒ぎになったのです。長老会では「喧嘩両成敗」と事なきを得ますが、その裏にはややひと波乱もあったとか。それは教区長がバッハに喧嘩については監督不行き届きを指摘、そして「ところでおまえはコラール伴奏はするけれど、多声音楽の伴奏は何故しないのか」と。それに対してバッハは「もし音楽監督がいてくれたらやらないでもない」との返答。それ以来教区長はその事に触れなかったとの事。

実は教会の建築上、3階構造ではオルガンは最上階、聖歌隊の入る余地がなく2階で歌うために込入った多声音楽の場合はかなりすぐれた音楽監督(指揮)が必要。その現状はお互いが全く見えず響きだけを頼っての演奏をしていたのです。

天才・秀才は生意気な言動で(当人はそう思っていないでしょう)教師、上司に煙たがられる事はいつの世でもあることですね。そんなクラスメイト、職場仲間が時々居るのではないかしら。。

参考書籍「バッハの風景」 樋口隆一 小学館


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グイド・レーニ(1575-1642)◇受胎告知

さて、今日ご紹介します作品をはじめ、初期のカンタータはどれもとても優れているといわれています。196番は結婚式のためのカンタータとして知られていて、マリアバルバラ(最初の妻)の叔母の結婚式で演奏しました。

歌詞のサイトこちらをご覧下さい
カンタータ:196番主は我らを心にとめたもう


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今日の1曲◇バッハ◇教会カンタータ147番:主よ、人の望みの喜びを

ピアノ:本間くみ子
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94話:式典音楽 その2



ヘンデル◇王宮の花火の音楽

この曲は1748年に作曲されましたが、言うまでもない事ですが、もう一つの作品「水上の音楽」と並んで祝典音楽としてヘンデルの著名な管弦楽作品となっていますね。

さて、ヘンデルはイギリスに帰化した直後1727年に正式に王室礼拝堂付作曲家、また宮廷作曲家に任命されました。毎年ロンドンでは公園や河川敷で花火大会が開催されました。また、何かお祝い事があるたびに、そのために祝典音楽が書かれ演奏されることもよくあることだったのです。

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山下清(1922−1971 日本画家・貼絵)◇諏訪湖の花火大会

花火のルーツはもともとは中国が発祥の地で14世紀ごろイタリアのフィレンツェで広まったとの事。日本に渡ったのは丁度江戸時代だったのですね。

今日の作品に関する出来事として、1740年から1748年まで、ヨーロッパではオーストリア継承戦争という、複数の国を巻き込んだ戦争がありました。イギリスではこの戦争が終わった翌年の1749年に戦争終結を祝う多くの祝賀行事が催され、そのうちの一つに花火大会として4月27日にロンドンのグリーン・パークでこの「王宮の花火の音楽」が初演されました。

オーストリア継承戦争神聖ローマ皇帝カール6世は子宝に恵まれず、継承者に悩んでおり、そこに生まれた娘マリア・テレジア(アントワネットの母となる)にオーストリアハプスブルク家を継がせるため、女子の相続を認める詔書を欧州主要国に認めさせ、また帝位に女性も即位できるよう要求していました。しかし、フランス宮廷のルイ15世はハプスグルク家の弱体化の好機と攻撃を仕掛け、それが発展してこの戦争になった経緯があります。

 

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アンドレアス・メラー (1717−1780 ドイツ) 11歳のマリア・テレジア

この作品の編成は管楽器のみからなる大がかりなもので、特に野外で浪々と響くように苦心されました。オーボエ24本、ファゴット12本、トランペット9本、ティンパニ3台。そして初演の際にはされに増加されて100本の管楽器を鳴らしたそうです。

この「王宮の花火の音楽」は実際には花火が打ち上げられる前に奏される「序曲」から始まり、その合間に奏された複数の小さなダンス調の小品「ブーレ」「平和」「歓喜」「メヌエット1」「メヌエット2」から構成されています。

管楽器構成というと私たちはスクールバンド・・そう、ブラスバンドをすぐイメージします。特にマーチングバンドはパフォーマンスとしてフォーメーション等、華やかですが元々は戦争の士気を高めるための軍楽隊がルーツなのです。音楽も戦争の道具だったと思うと大変悲しいことです。また当時、音楽は皇帝、王様に気に入られるために宮廷用BGM、画家は肖像画を沢山残しました。本当に自分の表現したい作品だけ残していくのが実生活をしていくのに難しい、これは昔も今も同じですね。

2「ブーレ」◇ターフェルムジーク・バロックオーケストラ


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今日の1曲:ヘンデル◇アラホンパイプ ピアノトリオ(ライブ録音より

 ピアノ◆本間くみ子

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92話:スケッチ「愛らしい小品」たち

前回に引き続き今回もシューマンの作品を取り上げてみたいと思います。私は歌曲と同じようにシューマンピアノ曲も大変敬愛しています。特に好きな作品は「クライスレリアーナ」「幻想曲」そして今日ご紹介する「子供の情景」です。この3つの曲集はそれぞれをここ数年で必ず演奏したいと考えています。皆さんのお好きな曲は何がありますか?

       シューマン◇「子供の情景」より トロイメライ
19世紀になると音楽と言葉のつながりが大変重要になりその結果世界各地で作品と演奏についての批評がとびかうようになりました。その中心人物であったのがこのシューマンシューマンは「ライプツィッヒ音楽新報」という雑誌の編集長、かつ主要所有権者となりました。そのため後に「音楽新報」と改名され、「シューマンの雑誌」とも言われていました。シューマンは音楽的な先駆者であったバッハとベートーベンを常に模範としていたとの事。

後の1855年、リストがシューマンの活動に対して下記のように語っています。(シューマンはこの頃は亡くなる少し前、すでに精神の破綻が更に悪化して療養所生活を送っていました)

シューマンは文学を音楽に近づけた。彼は実際にそのことを証明することができ、もっとも重要な音楽家であると同時に著述家でありえた。・・・・・シューマンは二つの国の住人だった。そして隔絶した地域の住人たちにある突破口を開きこれによって少なくとも個々の仲介者が互いに関心を交わすことができるようにした。・・・・・そうした種類の先駆者である。」リスト著作集より(1882年)

シューマンの交友関係はリストをはじめ、特に大きな存在であったのがショパンメンデルスゾーンだったのです。同世代のピアニスト、音楽家同士どんな話をしてお互いを高めあっていたのでしょう。想像するだけでロマン派の香りに包み込まれます。ただこの二人はシューマンより先に亡くなってしまっています。さぞ親友の死は大きな影響をもたらしたことでしょう。
     
              ルードヴィッヒ・クナウス(1820-1910)◇野原の少女

さて本題の「子供の情景」ですが1837年に作曲されました。全13曲の愛らしい曲集です。経緯としては1832年頃から後に妻となるクララとの結婚がクララの父親の反対、抵抗を受け(それはどんどんエスカレートして妨害、嫌がらせに近く最後は裁判までいきました)スムーズに運べず切迫した思いですごす中、それでもシューマンの作曲書法の進展を促すことになったとの事。この1837年代はピアノ曲を沢山書いていますが、それまでの作品は難解と批評された事に対して、この曲集は芸術性と親しみやすさが良いバランスで聞き手に分かりやすいと評判になりました。ただし、子供の学習用の作品とは違い「子供の心を描いた、大人のための作品」です。

中でもトロイメライはこの曲集の中心であり最も有名です。ドイツ語のトラウム=「夢」からの派生語で「夢見心地」という意味です。最初のモチーフのメロディーが少しずつ色を変えて何度も現れます。シューマンはこの曲を演奏するクララに対して「繊細に幸せに僕たちの未来のように」と語ったとの事です。

ピアノ:シュナーベル(開始後5分40秒あたりから「トロイメライ」です)http://www.youtube.com/watch?v=xdOF7U5pqbk&feature=related


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シューマン◇夕べに / 飛翔 演奏: ピアノ 本間くみ子
http://www.youtube.com/watch?v=OIYK6MBY0Zw
http://www.youtube.com/watch?v=S-WxDHR7LvY&feature=related

演奏会、アルバムについてのお問合せ k-honma@violet.plala.or.jp 本間まで

☆彡1月16日に行いましたニューイヤーコンサートは終了致しました。いらして下さった皆様、本当にありがとうございました