ピアノトリオコンサートのお知らせ
プログラムとして、掲載のトリオの他
リヒャルト・シュトラウス:ロマンス ヴェニャフスキ:モスクワの思い出
お問い合わせ、ご予約はチラシ掲載(会場:ソフィアザールサロン)までどうぞ宜しくお願い致します。
下記は最新動画です。グラナドス:詩的なワルツ集お聞きください(現在97曲のせています)
115話:シリーズ ドイツリートその1
謹賀新年
音楽エッセイを始めて2年を迎えました。お付き合い頂いている皆様本当にありがとうございます。
これからの流れとしては、今まで通り演奏会のプログラム作品が中心になりますが、また今年はドイツリートを少しでも多くご紹介できたらと考えております。どうぞ宜しくお願い致します。
1840年、シューマンは後に「歌の年」と名付けています。
クララとの結婚が難航する最中、驚くほどの歌曲が溢れ出ました。
最初は2月にシェイクスピアの「十二夜」からの詩に基づく<道化のお開きの歌>、ハイネの詩による<リーダークライス>、4月は<ミルテの花>、5月からはアイヒェンドルフの<リーダークライス>、下旬には<詩人の恋>、7月には<女の愛と生涯>、10月に<四つの二重唱>/<流浪の民>、などなど年内に124曲が作曲されました。
煩わしい事、悲しい事、それらをクララへの愛と希望のエネルギーにかえて創作活動に費やしていたのでしょうか。素晴らしい集中力と才能だと改めて敬服します。
☆譜を見ただけで、音楽が分かるようにならなければいけない。
☆ひく時は、誰が聴いていようと気にしないこと
☆いつも名人に聞かせるような気持ちで弾くように。
その他の座右の銘についてはこちらのエッセイ をご覧ください。「献呈」ピアノ編がお聴きになれます。
アーダルベルト・シャミッソーの詩に基づく歌曲集です。1840年7月7日、ヴィーク(クララの父)が裁判から退却した報せに、シューマンは「万歳!勝利!」と日記に書き、四日後にこの歌曲集に着手しました。詩の内容は普通の女性の一生を描いた連作で、それが新鮮とされて出版後に人気を博しました。
この歌曲集は、実際最後の詩(女性が孫を登場させる)を省いて全8曲で構成。音楽を劇的に対比させながら物語性を際立たせる一方、曲集全体には穏やかで、繊細な和声をおくことによって女性らしいつつましさ、明るさが表現されています。これは「子供の情景」にも言えることではないでしょうか。
それまでの歌曲集においてツィクルスの構築法を探求してきたシューマンは、今回も詩の内容に即して二つのグループとコーダで構成している。
第1曲《あのかたにお会いしたときから》心惹かれる男性にめぐにあった不思議な感情を、ためらいがちの伴奏リズムとつぶやくような歌唱法で表し、第2曲《誰よりも素晴らしいあのかた》で心の躍動を歌い上げ、第4曲《わたしの指輪よ》内的な喜び、第5曲《手伝って、妹たち》最後の結婚行進曲で区切りを迎える。ここまでがフラット系の調。
続いて第6曲《いとしい友よ、あなたはいぶかしそうにご覧になる》から第8曲までがシャープ系で落ち着きのあるグループを作る。この3曲が急展開するのだが、最後に冒頭の音楽が回想されて、穏やかな時空間へ誘う。
シューマンの歌曲「ミルテの花」よりはこちらのエッセイ「献呈」 をご覧ください。「献呈」ピアノ編がお聴きになれます。
彼に会ってからというもの、わたしは盲になってしまったよう。
どこに目を向けても、彼が見えてしまう。
まるで白昼夢のように,彼の姿がわたしの前に漂っていて、
深い暗闇からその姿だけが 明るく浮かび上がってくる。
わたしの周りはすべて 光りも色も無くなり、
妹たちの遊びにも もう加わる事も無い。
むしろ小さい部屋にこもって 人知れず泣いていたい。
彼に会ってからというもの、わたしは盲になってしまったよう
彼は、誰よりも素晴らしい人、何と優しく、何と善良なんだろう!
優しい唇、澄んだ瞳、明るい心とくじけぬ勇気
大空の深い青の中で、明るく輝いている星たちのように、
彼もわたしの心の大空で 明るく輝いて、気高くまた遥かにある
歩んで、あなたの軌道を歩んで ただあなたの輝きを眺めているだけでいい。
慎ましくあなたの輝きを眺めているだけでいい 幸せであろうと、悲しかろうと!
わたしのひそかな祈りを聞かないで、あなたの幸福だけに捧げられた祈りを
わたしのような卑しい女をあなたが知る事は無い、輝く天空の星よ!
誰よりも優れた女性だけが あなたに選ばれる幸福を受けるべき
そしたらわたしはその気高い女性を祝福します 何度でも祝福します
その時わたしは喜び、また涙を流すでしょう 幸せ、その時わたしは幸せなの
この心が張り裂けるというのなら、 張り裂けて、ああ心よ、それくらいの事が何だというの?
114話:流麗な後期ロマンチィズム
リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864- 1949)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家です。交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても活躍しました。
私のシュトラウスの印象は裕福な家庭に生まれ、素晴らしい教育を受け、音楽の才能に恵まれ、作曲、指揮だけでなく、器楽演奏特にヴァイオリンについては大家に近いものを持っていた・・まさに語学と絵画にも卓越していたメンデルスゾーンを連想してしまいます。
さて、父はホルン奏者で、シュトラウスは幼少から徹底的な音楽指導をうけます。後に父のことを回想して次のように言っています〜父は先ず第一にモーツアルトを、次いでハイドン、ベートーヴェンを高く評価していた。その他はシューベルト、ヴェーバー、メンデルスゾーン、シュポーアであった〜
1880年あたりまでは、シュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、古典派・ロマン派の巨匠たち、例えばモーツアルト、シューマンやメンデルスゾーン風のかなり保守的で流麗さが特徴でした。やはりモーツァルトを崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいる思いがした」と語ったといわれています。そして父親の考えを受け継いでいたので、リストやヴァーグナーなどの新ロマン派には背を向けていました。
しかし、その後からシュトラウスが新しい音楽に興味を持つことになりますが、きっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからです。リッターの影響により、革新的音楽に真剣に向き合うようになりました。
また、20世紀の代表的な作曲家シェーンベルクとは特に10年間ほど大変密接な関係でいました。
R.シュトラウスの作曲活動は3期に分けられています。今日の作品は第1期(1880〜87)
1883年、19歳の作曲です。
背景として、1882年「トリスタンとイゾルデ」を聞いてからヴァーグナーに傾いていきます。1983年、ベルリンへ行った時、美術のメンツェルなどから影響を受け、芸術の新しい動きへの目を開き始めていきます。1984年ハンスビューローと出会い、彼から認められ、ブラームスの熱烈な信奉者にもなりました。そうして標題音楽と絶対音楽、革新と保守の間をさまよい、この頃、ブラームス風であるがヴァーグナーの影響も強い作品を書いています。ロマンスと同じ年に書かれた「チェロとピアノのためのソナタOp.6」(1882-83年)。
こうして、マイニンゲン時代(1885年-86年)にヴァーグナー派に転向し始めました。
この曲はもともとはチェロとオーケストラのための曲で、1883年にチェリスト、ハヌシュ・ヴィーハンのために書かれましたが、献呈は作曲家の叔父でミュンヘンの首席検察官アントン(リッター・フォン・クネツィンガー)になされました。初演はシュトラウス自身のピアノで演奏されましたが、その後作品の存在は忘れられ 1980年にようやく再発見され、今日に至ります。典型的なロマンスの形式で書かれており中央に対照的な部分が置かれています。
下記のピアノトリオコンサートでも、この曲を演奏致します。
113話:サルスエラ
只今来月に控えた演奏会ピアノコンサート〜名曲の旅〜の準備をしております。そして丁度スペインの作曲家の作品も取り上げる予定なのでこちらにご紹介致します。
ファリャ(1876-1946)はスペイン作曲家です。フェリーペ・ペドレル(1841-1922 スペイン国民学派の父と呼ばれた)に師事しましたが、師の影響によりスペイン民族音楽に傾倒していきます。とりわけアンダルシアのフラメンコに興味を持ちます。多くのサルスエラの作品を残し、中でも最も有名なものが今日ご紹介する歌劇「はかなき人生」(1905年作曲)です。
サルスエラ(Zarzuela)・・・お料理で言うならばスペイン風のブイヤベースだそうです。もともとは音楽用語から生まれた名前だとご存知でしたか。サルスエラとはスペインの抒情詩オペラ音楽のことを指します。スペイン人によるスペイン語のオペラなのです。
簡単なあらすじはヒロイン、サルー(ジプシー娘)がバコ(一般スペイン人)と恋仲になりますが、バコは結婚相手としてならカルメラ(同じ階級のスペイン人で金持ちの令嬢)を選ぶまでのお話。階級・民族間の悲恋がテーマです。また今日ご紹介する「はかなき人生」はこのサルスエラの劇中曲が抜粋され、クライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲したことからよりポピュラーになりました。
ジプシーと言いますと、自由気ままに生きている印象がありますが、現実のスペインでは差別があるようです。フラメンコが他の舞踏のように作った笑顔で踊るというものとは違い、喜びだけではなく、眉間にしわまでよせて辛さ、悲しさも情熱的に表現しようとすることにはこうした背景があるのでしょう。
フラメンコと言えば皆さんが思い浮かべるものは、真っ赤なドレスの踊りて、ギターの伴奏、をはじめ、他にはカンテ(歌)・パルマ(手拍子)・パリージョ(カスタネットを持った踊りて)などでしょうか。
移民という過酷な生活が生んだ素晴らしい舞踏と音楽。スペインに限らず民族音楽はまさに「生きる証」そのものだと感じます。
11月10日(土)東京・駒込:ソフィアザールサロンにて
ソフィアザールインフォメーションご予約・お問い合わせ
アルベニス◇コルドバ ピアノ:本間くみ子
112話:孤独な神童
今回もモーツアルトです。モーツアルトの子供時代は大半を演奏旅行に費やした事もありかなり普通の子供とは違った人間形成になったことでしょう。
同じ年頃の友達と外を駆けずり回って遊ぶ、という事が想像しかねる、のは私だけではないでしょう。
父親レオポルドの同僚(宮廷オーケストラ)に、シャハトナー(1721-95)というトランペット奏者がいました。五才上の姉ナンネルの質問に答えてシャハトナーが思い出をつづっているものがありましたのでご紹介します。
「令弟が音楽の勉強に夢中になり始めると、他のすべての仕事に対する嗜好はすべて死に絶えたも同然になってしまうほどで、さらに子供っぽい遊びや戯れも、もし彼にとって興味がある場合は、音楽の伴奏がつけられました。彼と私が、部屋から別の部屋へと、玩具を運ぶ時はいつでも手の空いているほうが、行進曲を歌ったり、ヴァイオリンを弾いたりしなければなりませんでした」
「彼が音楽を始める前の頃、ほんの少しでも面白い遊びがあると、彼はそのために飲食を忘れ、また他のことをすべて忘れてしまうほど感じやすいものでした」
モーツアルトは興味のないものに対しては我慢できず放り出し、一方熱中すると我を忘れる、両者が並はずれなものであったのですね。
楽譜を書いているヴォルフガングの様子をのぞき込んでいるのは、父親のレオポルト。
そばにいるのはシャハトナー
「お互いにしょっちゅう会ってばかりいたので、彼は私がものすごく好きになってしまい、一日に何度も、おじさんは僕が好き?とたずねるものでした。時々、まったくの冗談のつもりで、いや嫌いだよというと、彼はすぐにも目にきらりと涙を浮かべるものでした。それほど彼の心はやさしく、そして愛らしいものでした」
さて、みなさんはモーツアルトとお友達になりたいですか?
他にもエピソードご覧になりたい方はこちらのエッセイをご覧ください。98話:手抜き、減給の名曲
1786年36歳、モーツアルト円熟期の頃の作品です。この頃はオペラ「フィガロの結婚」上演大成功に続き、翌年には「ドン・ジョバンニ」を作曲、上演、平行してピアノトリオ、他と精力的に作曲活動しています
このピアノ曲「ロンド」は明確な展開部を持っていてロンド形式とソナタ形式の両方の特色を備えた作品です。
冒頭のテーマは曲の進行の中で何度も出てくるのですが、その都度転調し、色彩が変わります。また転調するに至るまでの和声の進行、伴奏形態の変化が実に巧みで私は演奏するたびに感動します。きっとモーツアルトにとっては意図も簡単に即興で(鼻歌まじりに)あっと言う間に演奏してしまった事でしょうね。
私自身の演奏会については11月10日(土)ピアノコンサート〜名曲の旅〜も予定しています。今日ご紹介したモーツアルトのロンドも演奏する予定です。
尚、現在youtubeには90曲載せています
111話:別名はドン・ジュアン
モーツアルト、ウィーン時代最後の作品からもう一つご紹介します。
歌劇「ドン・ジョバンニ」です。
歌劇「フィガロの結婚」が1786年12月、プラハ(チェコ)で上演され大好評を博したことより 翌年1月8日から1ヶ月程モーツアルトは劇場関係者よりプラハに招聘されました。1月27日はモーツアルトの31歳の誕生日であり、彼にとってこのプラハ滞在(招待)は最高の誕生プレゼントとなったのではないでしょうか。また、この時台本作者のダ・ポンテも同行していました。そして、プラハ滞在中のモーツアルトにプラハの 民族劇場(スタヴォフスケ劇場、英語ではエステート劇場)より新曲の委嘱がなされたのです。そしてこの新曲こそが「ドン・ジョヴァンニ」でした。勿論、台本は「フィガロの結婚」と同様ダ・ポンテが担当しました。
*ロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte, 1749- 1838)は、イタリアの詩人で台本作家。モーツァルトの3つのオペラの台本を書いたことで知られています
「ドン・ジョバンニ」は2幕からなくドラマ・ブッファです。
*歌劇「オペラ・セリア」=正歌劇、イタリア語からなり、1710ら1770年頃までヨーロッパで支配的、高貴かつシリアスな内容)「オペラ・ブッファ」=(18世紀前半にナポリで生まれ、イタリア語、市民的で、より身近な問題を取り扱うものでした)「ジングシュピール」=(ドイツ語による歌芝居や大衆演劇の一形式を指し、オペラ、またはオペレッタとも呼ばれます)この3つのジャンルが中心となっています
この歌劇は、ただのおもしろおかしい喜劇とは趣が異なり、悲喜こもごもおりまぜ人間性をついた場面を持つ名作です。劇中、数々の名歌を持つほか、序曲も独立して演奏される機会の多いことで有名です。
ただこの新曲「ドン・ジョヴァンニ」の準備は順調なものではなかったようです。特に1787年5月28日にモーツアルトの 父レオポルドがザルツブルグで 亡くなった(享年67歳)影響は大きいものでした。そのことものあり、序曲の作曲が完成したのは、初演(1787年10月29日、 スタヴォフスケ劇場)の間際であったとのことです。
*一般に数ある序曲の中でも最上のものとみなされている。彼が初演前夜のしかも稽古がすでに終わった後でペンをとっただけだった。その晩は11時ごろ自室にこもると妻に自分がうっかり寝込まないようにと、途方もない冒険話をしてもらう、などやっとのことで翌朝の7時までに書き終えた。また楽員たちは練習しないで演奏しなければならなかった。ある人々は、この序曲中には、モーツアルトが睡魔に襲われたに違いないと思われる部分や、彼がはっと目を覚まして書いたと思われる部分をはっきり認めることが出来ると主張している。(モーツアルト:スタンダール著)より
さて、筋書きは・・・17世紀、スペインのセビリアが舞台。女性を次々口説いては棄ててゆく、色男が、口説いた娘の父を決闘で殺してしまい、その父親の墓の石像の前で彼の幽霊に出会い、なんと自らの宴に招くという不適な行為をした結果、その石像が実際に現れ、ドン・ファンの手を取って地獄に引き摺り下ろす‥‥という内容。
余談ですが、このお芝居はとても人気があったようで、ヨーロッパ中で公演され、その後も何人もの人によって書き直されてもいます。
(参考までに)モリエール 喜劇 ドン・ジュアン 1665 / モーツァルト オペラ ドン・ジョバンニ 1787 / プーシキン 小説 石の客 1830 / リヒャルト・シュトラウス 交響詩 ドン・ファン 1889 / アポリネール 小説 若きドン・ジュアンの冒険 1911
他に呼び方ですが、スペイン語ではドン・ファンといい、フランスでは、ドン・ジュアン、イタリア語では、ドン・ジョバンニ などです。
ドン・ジュアンというタイトルから私の大好きな画家の作品から大変興味深い一枚を見つけましたので一緒にご紹介します。
詩人ジョージ・ゴードン・バイロン長編詩として残した作品に、ドン・ジュアン(ドン・ジョバンニ)を主題としたものがあります。スペイン、セビーリャの若き色男ドン・ジュアンが放蕩三昧で土地を追い出され、外国へと向かうために船に乗りますが、その船が難破してしまいます。さらに漂流の末に食糧も底を尽き、食物として搭乗者の犠牲となる物を決めるためのくじ引きをおこなっている場面なのだそうです。ドラクロワはこのロマン派主義のバイロンに強く傾倒を示していました。
モーツアルト◇ドンジョバンニ Don Giovanni K.527
序曲
私自身の演奏会については11月10日(土)ピアノコンサート〜名曲の旅〜も予定しています。
尚、現在youtubeには88曲載せています
110話:ウィーンでの素晴らしい創作意欲
先日、ピアノトリオの演奏会を来年させて頂くお話を頂きました。プログラムの最初は軽快なモーツアルトから、という事になり今日はその作品からのご紹介です。
モーツアルトのピアノトリオは全6曲あり、どの曲も晩年数年間で作られています。ウィーン時代( 25歳〜32歳)の最後の年でもあります。特に最後の3曲は1788年に、ブフベルク家(ウィーンの裕福で音楽好きの織物商)での小さな音楽会のために作られたのであろうとされています。
ウィーン時代を簡単に辿ると、1781年に一度ザルツブルグに戻るのですが、ザルツブルグ大司教コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意します。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てました。
翌1782年、 父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚、このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぎます。
1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)、父親はハイドンから息子の才能について賛辞を受けます。また、ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦しました。
ハイドンの言葉
「有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」
1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問します。 5月には父・レオポルトが死去。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとります
プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めました。即ち、家計の出金に対する現金入金不足です。理由の一つには予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し(オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない)これに伴う現金収入がら激減したのです。
6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれています。 *ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。
《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう・・(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》
ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれたのです。
そんな中でもモーツアルトの創作意欲が衰えることがなく、6月から8月にかけて3大交響曲を書き上げました。
さて、このモーツアルトのピアノトリオ、弦の仲間がいたら形だけでも自分も弾けるかもしれないような簡素さでありますが、実は大変深い表情があり、そう簡単でもないと知ります。ピアノの部分についてみると、ソナタ等では低音域の表現にも神経を行き渡らせなければならない分、表現に限りがあるのに対して、ピアノトリオでは、足元はすべてチェロにゆだねて、ピアノとヴァイオリンが自由闊達、気ままに舞踏しているような、そんな感じを受けます。ピアノトリオの形はコミュニケーションの面白さが大きく拡がるアンサンブルの最も洗練された形ではないでしょうか。
モーツアルト◇Piano Trio in G Major , KV 564
第1楽章
私自身の演奏会については11月10日(土)ピアノコンサート〜名曲の旅〜も予定しています。
尚、現在youtubeには87曲載せています