109話:ブラームスと二人の女性

ブラームスと言えば・・・内向的で人見知りの強い人柄を連想します。そして新ドイツ派(ヴァーグナー、リストなど)への反抗精神を寄せた人、ロマン派の作曲家で最も変奏曲に関心を寄せた人、この上なくシューベルトの歌曲に魅了された人、バッハ、ベートーベンを崇拝、研究した人、としても知られています。

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20代のブラームス

ブラームスは20歳の時、親友ヨワヒムの紹介でシューマン家の扉をたたきます。彼の作曲したソナタ、スケルッツオに感動しその日から弟子として住み込むことになりました。

ロベルトの妻クララの日記より、「今日は素晴らしい人物、ハンブルク出身の作曲家ブラームスと出会う幸運を私たちにもたらした。彼もまた神からじかに遣わされた天才のうちのひとりなのだ。****ブラームスには差し引いたり、付け加えたりするようなものは何もないとローベルトは言っている」

ブラームスはいつしか同居しているうちにクララへ愛情を抱き、複雑な立場に苦しみながら数々の作品にその想いを託しています。これは有名なお話ですね。しかし今日ご紹介する二人の女性は限りなくクララに関係はありますが、別の女性なのです。

一人は25歳の頃、クララと子供たちとの夏の滞在地ゲッティンゲンの大学教授の娘アガーテ・ジーボルトです。クララに対する解決のつかない思慕とは別の、若くて聡明な女性の出現はブラームスの心を現実に引き戻しました。婚約まで辿りつくのですが、一方的にブラームスから破棄してしまいます。その背景には少年期に過ごした「女郎買い横丁」と呼ばれる決して良好と呼べない環境の中で目にした女性たちや、クララへの愛を含めて女性に対する屈折した感情が影響したと言われています。
  

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アガーデ・シーボルト

もう一人の女性は失恋に終わりました。それはクララの三女ユーリエ・シューマンです。
このユーリエへの愛はシューマンへの崇敬とクララへの親愛が重なって特別な意味を持ち、密かなものでした。しかいクララは全くそれに気ずかず、ユーリエが結婚がきまってからはブラームスは深い衝撃を受けクララのもとに足を運ぶことも少なくなったのです。


チェロソナタ第1番作品38(1862-65)

ブラームス29歳の頃の作品です。ベートーベンを研究し、またバッハのフーガの技法を下地に作曲しました。

この曲を作る背景として、クララとベルリンで過ごしていましたが、1862年になると演奏家としての活発な活動に入りウィーンへと拠点を移します。友人に宛てた手紙に「僕はやってきた。いま、プラーター広場からほんの十歩のところに住んでいる。ベートーヴェンがいつも飲んだ場所で、ワインを飲むことができるんだ」

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フェルディナント・ラウフベルガー◇プラーター公園で楽しむ庶民

またウィーン滞在で大きな収穫となったのはシューベルトの作品との出会いであり、ウィーンの深い魅力を感得させるものだったのです。1863年知人に宛てた手紙に「私が当地でこのほか楽しく過ごせたのはシューベルトの未出版の作品のおかげです。彼の作品を仔細に見ていますとすっかり楽しい気分になってしまいます」

そして同年ウィーン・ジングアカデミー指揮者就任の職を得て、更に新しい人間関係と音楽の世界を開いていったのです。

ブラームスは生涯独身でした。クララへの想いは私たちの想像を超える深いものだったのでしょう。一方クララはシューマンを死ぬまで愛し、いいえ、永遠に、尊敬していました。女性の立場として思うことは母として、妻として、女性として、そして音楽家として凛とした強さとたおやかさを持って生き抜いたクララを尊敬してやみません。ブラームスの音楽はロマンティックと言うほど軽いものではなく、前に進みたい自分と引き留めるもう一人の自分がいて、光の先が見えない闇の中を旅しているように感じます。



第1楽章Mstislav Rostropovich, violoncello & Sviatoslav Richter, piano

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先月のリサイタルを終え、目下6月のチェロ&ピアノデュオコンサートに向けて準備を進めております。(今回ご紹介するチェロソナタを演奏致します)

尚、11月私のソロコンサートについてはピアノコンサート〜名曲の旅〜も予定しています。


下記の動画はリサイタル1週間前に某スタジオで録画しました。
ベートーベン後期ソナタ30番の3楽章、どうぞお聞きください。
尚、現在youtubeには88曲載せています

6月17日 演奏会のご案内です

チェロとピアノ デュオコンサートのお誘い

リサイタルを終え、一日休養のあとはこちらの演奏会に向けて気持ちを新たに送っております。
ご予約、お問い合わせはメッセージにてどうぞ宜しくお願い致します。
コンサートネット情報こちらにも掲載しております
http://tutti-classic.com/concert/2251

$音楽エッセイ「今日の1曲」


下記の動画はリサイタル1週間前に某スタジオで録画しました。
ベートーベン後期ソナタ30番の1楽章、どうぞお聞きください。
尚、現在youtubeには88曲載せています。

youtube;kumikopianon シューマン◇子供の情景

先日4月21日のリサイタルは終了致しました。
今回はネット検索で初めてお越し頂きた方も多く嬉しい驚きでした。
ご来場下さった皆様、本当にありがとうございました。

私はシューマンピアノ曲がとても好きです。
ピアノの年と呼ばれた頃の作品を中心にこれからも勉強し続けていきます。
下記はリサイタル1週間前に某スタジオで録画したもです。
尚、youtubeには現在88曲載せています。よろしかったらお立ち寄り下さい。

108話:不滅の恋人に献呈したピアノ曲

ただ今第3回ピアノリサイタルに向けて日々準備をしております。
今回はロマン派への誘い最終章、ベートーベン後期ピアノソナタからのご紹介です。

  

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クリムト◇ベートーベンフリーズより〜詩〜


ベートーベン◇ピアノソナタ第30番作品109


ベートーベン後期ソナタを呼ばれるのはこの30番をはじめ、31番・32番です。29番「ハンマークラヴィーア」もそうですが、30番〜32番は1820年にまとめて作られました。聴覚が全く絶望的であったにもかかわらず、メートリンクでの心地よい夏を過ごしたあと、ミツバチのように楽想をかき集めて来てウィーンに帰ってから一気に書き上げられた、と記されています。

特にこの30番は不滅の恋人と言われているマクシミリアーネ・アントーニアへ捧げられているようです。しかし、当時アントーニアは結婚していたこと、主人であったマクシイリアーネ氏には世話になっていたことなどにより、ベートーベンは公にしなかったらしい事が後に分かりました。その証拠の一つにこの30番は直接夫人に献呈されておらず、娘のブレンターノに手渡されています。現代の私たちから想像するベートーベンとは違う繊細な一面が伺えますね。またそんな切ない恋というとクララとブラームスを連想していまいます。

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アントニーア・ブレンターノ

1813年の自殺未遂から9年を経て、創作に落ち着きもあらわれています。この30番は第3楽章に重心がおかれ、変奏曲になっていますが、主題後半部分は歌曲「遥かなる恋人に寄せる」と同一のフレーズが用いられていることからも叶わぬ想いを曲に封じ込めたベートーベンの心情を察します。

次回は若きベートーベンのエピソードをご紹介します。

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第一楽章バレンボイム

第一楽章アラウ



 

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リサイタル会場:ソフィアザールサロン全景はこちら
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/happyendoh/top.files/soph.files/seclet.html

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リサイタルについてはこちら 

ただ今youtubeに73曲のせています。どうぞお立ち寄りください
http://www.youtube.com/user/kumikopianon/videos


ショパン◇ワルツ8番

フォト「タイムの紅葉」クラシックコンサート定期的にしています・カフェ「野の花」 

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ピアノリサイタルのお知らせ

ベートーベン後期ソナタ30番は特に不滅の恋人(実際はその娘に)献呈され、思いの深い美しい楽曲です。

多くの方のご来場お待ちしています。

会場:ソフィアザールサロン全景はこちら
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/happyendoh/top.files/soph.files/seclet.html

コンサート情報案内↓にも掲載しております。
http://tutti-classic.com/concert/125

お問い合わせはこちら k-honma@violet.plala.or.jp(本間)

106話 ロマン派への誘い〜ゲーテとの出会い

今日はメンデルスゾーンの作品からのご紹介です。
まずメンデルスゾーン自身の才能、偉業についてはこちら永遠の三重奏団のエッセイも重ねてご覧ください。

メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて

1836年(27歳)に作られ、歌曲集「6つの歌」作品34の第2曲です。
詩はハイネによるものです。トスティも同じ詩で作曲しているのですがあまり知られていません。
この作品もそうですが、メンデルスゾーンの育ちの良さが全体の作品に表れ、のびやかで明るく私たちの心を潤わせてくれます。またシューマンと親友でもありましたがきっと、繊細で気難しいシューマンの大切な良き相談相手になっていたのでしょね。

歌の翼に愛しき君をのせて ガンジスの野辺へと君を運ぼう 
そこは白く輝く美しい場所 そこは赤い花が咲きほこる庭 
静寂の中 月は輝き すいれんの花 愛する乙女を待つ 
スミレは微笑み 星空を見上げ バラが耳元で囁く 芳しきおとぎ話
かしこくおとなしい小鹿 走り寄り 耳をそばだてる 遠く聞こえる聖なる川の流れ
僕等は椰子の木の元に降り立ち  愛と平穏を満喫し 幸福に満ちた夢を見よう
歌◇Barbara Bonney メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて
ヴァイオリン◇J. Heifetz メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて

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メンデルスゾーンが描いた水彩画

ハイネを詩をご紹介しましたが、メンデルスゾーンは文豪ゲーテ(1749-1832)とも関わりがありました。エッカーマンの「ゲーテとの対話」の中に老ゲーテが少年メンデルスゾーンに夢中になりワイマールの自宅で何度となくピアノ演奏をさせる光景を描いた文章があります。最初の出会いは1821年11月、メンデルスゾーン12歳、ゲーテは72歳でした。
出会う前にすでにメンデルスゾーンゲーテの詩を読んでいたとのこと。その後1822年、1825年、1830年と再訪をしています。

さて、最後にゲーテメンデルスゾーンの共通の何かを探していたところ詩集「オシアン」にたどりつきました。「オシアン」とはスコットランドの伝説上の王、そして詩人、叙事詩です。違う時代ではあっても同じ作品を読み影響を受け、自分たちの作品に表現していく作り手を改めて尊敬します。
ゲーテメンデルスゾーンだけでなく、ルソー、ワーグナーシューベルト他、作家、画家、音楽家に強く影響を受けただけではく、一般の人々にケルト民族を知ってもらう好機にもなりました。

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ローラの岸のオシアン◇フランソワ・ジェラール

もう一つのエッセイ「音楽と絵画の部屋」 Chapter10 シューベルトの手紙よりこちらもご覧下さい

 

本間くみ子 第3回 ピアノリサイタル→ロマン派への誘い

追記)
シューマン著「音楽と音楽家」の中にメンデルスゾーンの無言歌集について触れている文章をご紹介します。

夕闇のせまる頃、ピアノの前に座って、何とはなしに夢見心地で指を遊ばせているうちに、知らず知らず小声で旋律を口ずさむといったようなことは、誰しも覚えがあるだろう。

たまたま、その人が、自分で旋律に伴奏をつけられ、ことに彼がちょうどメンデルスゾーンのような人だったとすれば、たちまち美しい無言歌ができる。勿論、まず詩について作曲し、次に言葉を削って発表すれば、もっと楽にできよう。けれどもそれは本当の無言歌ではないし、いわば一種の詐欺である。
しかしそんなことがあったら、その機会に、果たして音楽がはっきりと感情を伝えられるかどうかの試験をしてみるのも面白いから、その削った詩の作者に頼んで、できた歌に新しい言葉をつけてもらうとよかろう。

新しい詩が古い詩と一致したら、それこそ音楽の表現の確実さの証明だ。さて、この歌集をみてみよう。歌はみな日光のように明るい顔をしている。最初の歌は(甘い思い出)印象の純粋さと美しさを備えている。フロレスタンは「こういう歌を歌った人はまだまだ長い生命が期待される。生前はもちろん、死んだ後もこの曲は長く残るだろう」・・・

シューマンの言わんとするところ、大変分かります。まさに文学を音楽に近づけた方の言葉です。
私もこの無言歌集は大好きです。気持ちが沈んだ時にも、最初のひとフレーズを聞いた瞬間にふわりと心を軽く誘ってくれるのです。よろしければその無言歌集の中から第1曲目「甘い思い出」をお聞きください。

メンデルスゾーン◇無言歌集「甘い思い出」 ピアノ 本間くみ子

105話:ロマン派への誘い その3

 

シューベルト=リスト(編曲)◇歌曲「白鳥の歌」〜セレナード

歌曲の王」として知られているシューベルトですが、この歌集「白鳥の歌」の意味を皆さんはご存知でしょうか。

まず、シューベルト(1797-1828)が病床となった1828年11月12日に友人*ショーパーに宛てた手紙をご紹介します。またこれがシューベルトの書いた最後の手紙となりました。(*シューベルトが17歳で出会い生涯友人であり、シューベルティアーデの場を提供してくれた人達の一人でもある)

「親愛なるショーパー君、僕は病気で、この11日間何も食べたり飲んだりしていない。ただ安楽椅子とベッドの間をよろけながら行き来しているだけだ。何か食べようとしてもすぐに吐いてしまう。そこで申し訳ないのだが、この絶望の状態にあるぼくに、何か読物を貸して助けてはくれないだろうか・・・」

と、こうしている間にもシューベルトは最後の仕事、歌集「冬の旅」第二部の校正をしていたそう。死を目の前にしても、最後まで作品作りをしようとする気力、情熱に私はただただ尊敬の念を抱くばかりです。

 ハンス・ラルヴィン:シューベルトを迎える友人達

ハンス・ラルヴィン◇シューベルトを迎える友人達(中央が本人)

シューベルトは本格的に歌曲を書き始めたのは17歳、新しい学校に入学してからの時期です。また同じ年、冒頭でも触れましたが、友人ショーパーと出会い、良くも悪くも沢山の影響を受けていきます。

20歳になると、将来作曲家になるための重要人物との出会いが待っていました。それはヨハン・ミハエル・フォーグル(1768-1840)。彼は歌手で劇場よりもサロンでアリアや歌曲を歌うことで人気を博し、シューベルトの歌曲をずっと歌い続け広めてくれたのです。

  クールベ・ウィザー:友人フォーグルと

クールベ・ウィザー◇友人フォーグル

さて、今日ご紹介する「セレナード」ですが、1827年(30歳)交流があり歌手でもあったアンナ・フレーリヒからの依頼で、彼女の生徒(ゴスマー)の誕生日に合唱曲として、注文を受けていました。実際、この誕生会は思考を凝らしたもので、当日ゴスマーの住む家の庭にそっと三台の馬車で合唱団が入り、ピアノも気づかれないようにゴスマーの部屋の下におかれました。いざセレナードの演奏が始まるとゴスマーが驚いて窓から顔を出し、次の瞬間には大きな喜びを表したという事です。

尚、これにはおちがあり、シューベルトはこの誕生会に招待されていることをすっかり忘れていて、実際にこの曲を聴いたのは翌年。そしてアンナに「この曲がこんなに美しいとは本当に思ってもみなかった」と語ったと言われています。仕事で受けた作曲とはそんなに無頓着なものだったのでしょうか・・不思議な感じさえします。この曲は前奏を聴いただけで心がしみじみとしてきませんか

そのセレナードが含まれている歌集タイトル「白鳥の歌」についてですが、これはシューベルト自身がつけたかどうかは疑問だそう。死後、兄のフェルディナントが最後の3曲のソナタと共に13曲の最後の歌曲として提供し、彼自身の手で「白鳥の歌」と書き記しています。また、そもそもの意味は死ぬ間際に白鳥は歌うと言われ、その時に歌声が最も美しいという言い伝えから、ある人が最後に作った詩や歌曲、生前最後の演奏などをそう言われています。

  フェルメール:窓辺で手紙を読む女

フェルメール◇窓辺で手紙を読む

 

「セレナード」の詩を一部ご紹介します 

                                       詩:レルシュタープ

僕の歌は夜の中を抜け あなたへひっそりと こう訴えかける

静かな森の中へと 降りておいで 恋人よ、僕のもとへ

細い梢が月の光の中で ささやくように ざわめいている

裏切り者の意地悪い盗み聞きを怖がることは無い 優しい人よ

夕べに恋人の窓辺で恋をささやくセレナード(夜想曲)であり、ピアノ伴奏にもギター風の音型が使われています

歌◇Peter Schreier シューベルト◇セレナード
ピアノ◇Horowitz シューベルト=リスト◇セレナード


もう一つのエッセイ「音楽と絵画の部屋」 Chapter10 シューベルトの手紙よりこちらもご覧下さい

本間くみ子 第3回 ピアノリサイタル→ロマン派への誘い